八鬼山越え手記


1999年11月15日(月)。

伊能ウォーク隊は第3ステージで、おじいさんの故郷、三重県尾鷲市を歩きました。
この日は、尾鷲市役所を出発し、熊野古道随一の難所と言われる八鬼山を越え、三木里町に
 あるおじいさんの実家に立ち寄るコースでした。
世紀の大プロジェクト、伊能ウォーク本部隊が生家に立ち寄る!!
東京に勤務する私(おじいさんの長男)は、有給休暇を何とか1日だけ取得することができ、お
 じいさん・おばあさんと一緒に歩きました。

これは、その時の手記です。
「風と歩いた二年間」の中にも一部引用されていますが、紙面の都合上、およびおじいさんの
 独断で、かなりカットされ不本意な部分もありますので、ここに全文を公開します。

当然のことながら、ここに出てくる父・母は、西川家のおじいさん・おばあさんのことです。

1.東京から尾鷲へ

11月14日(日)午後8時に池袋サンシャインシティに到着。
和歌山・紀伊勝浦行きの夜行バスの発車時刻21:30までにはまだ余裕がある。
乗車場所を確認し、重い荷物をコインロッカーに入れ、夕食に向かう。
池袋サンシャインシティ地下1Fのトンカツ屋に入った。黒豚のロース定食と生ビールを注文。う
 まい。肉質がよく、衣の付け具合も絶妙。思わず生ビールをお代わりし、ホタテの串揚げを追
 加注文した。これがまたうまかったので、焼酎のお湯割りと牛ロースの串揚げをさらに追加。
明らかに飲食のし過ぎだが、明日は長距離歩くので、栄養をつけなきゃと自分自身を納得さ
 せ、勘定に向かう。勘定は2千円、安すぎる、生ビールのお代わり分が多分ついてないな・・・
 そう思ったがレシートをくれなかったので、そのまま払って出た。今日は出発からツイている
 ぞ。

コインロッカーから荷物を取り出し、バス乗り場へついたのが9:10。人通りが少なく薄暗い通
 りである。待っているのは私一人。さすが池袋だけあって、約20m離れたところで、携帯電話
 を手にしたがらの悪そうな人々が7人たむろしている。大声で関西弁がとびかっている。
目を合わせちゃいけない、早くバスが来ないかと内心ビクビクものであった。
待つこと10分。大型バスが来たので急いで乗り込んだ。
ほどなく、女性2人が乗り込み出発。やはりローカル線だ、たった3人しか乗っていない、と、思
 ったのも束の間、次の池袋駅前からどっと乗車し、約30人の乗客で満員となった。
車内は快適。一人一人独立したシートで、リクライニング・足置き・毛布が完備しており、お茶
 のサーバーも置いてある。出発前にお茶のペットボトルを買い込んだことを少し後悔した。

さて、明日に備えてぐっすり寝るぞ、と、寝る体制に入ったが、車内案内で、中央高速に入ると
 のアナウンス。えっ、東名高速じゃないのか。東名では何度も東京−名古屋間を往復している
 が、中央高速で名古屋に行くのは初めてである。好奇心が沸き起こり、これはおちおち寝てい
 られないぞ、と、思ったが、明日は強行軍だ、我慢して寝なきゃ、と、自制し目を閉じた。しか
 し、なかなか眠れない。快適とはいえ、バスの振動が気になる。そうこうしている内に、最初の
 休憩となった。
バスは、池袋→尾鷲の間に運転手交替のため3回休憩をとる。2〜3時間間隔で、山梨(双
 葉)、岐阜(恵那)、三重(安濃)に各10分間停車した。途中全て高速道路を通るのかと思ってい
 たら、春日井ICでいったん19号線に入り、勝川からまた高速に入った。確かにこの方が距離
 は圧倒的に短い。
途中何度かまどろんだが、こんな事をはっきり覚えているぐらいだから、それほど深くは眠って
 いないだろう。

15日午前5時頃、バスは勢和多気ICから国道42号線に入った。程なく雨が降り始める。あ
 〜、やっぱり雨か・・・。降り止むことを祈っていたが、尾鷲に近付くにつれ雨足は強まる一方、
 バスを降りる直前にあきらめてリュックからレインウェアを取り出して身にまとった。
予定より10分早く6:20分に尾鷲市民病院前に到着。そこで降りたのは私一人であった。


2.雨の尾鷲

雨は小降りで、傘をささなくても歩ける程度であった。重いリュックを背負い、集合場所の尾鷲
 市役所まで歩いた。市役所に着いたがもちろんまだ誰もいない。しばらく一人でぼーっとしてい
 たら市役所の用務のおじさんが来て、鍵を開け始めた。
午前7時前、母が三木里から叔父の車に乗せてもらい市役所に到着した。腹が減っていたの
 で、挨拶もそこそこに持ってきてもらったオニギリをほおばった。ちょっと量が多いと思ったが、
 栄養をつけるという大義名分のもと、全てたいらげた。昨日から明らかに食べすぎだ。
その後、用便を足したくなった。尾鷲の市役所はおおらかである。早朝のため、まだ誰も出勤
 してきていないが、用務のおじさんが既に鍵を開けていたので中に自由に入れる。市役所内の
 トイレで快適に用を足すことができた。もう少し付け加えると、このトイレは水漏れしていた。給
 水管の継ぎ目から、水が霧状に出ていた。これがちょうどトイレットペーパーにわずかにかかっ
 ている。そのため、トイレットペーパーはしっとりと濡れており、非常に拭き心地よいものであっ
 た。もっとも、もっと濡れていたら破れて使いものにならないが・・・・

叔父は、三木里に戻り、歓迎の準備に入るという。一緒に歩こうと言ったが、冗談じゃないと気
 色ばんで断られた。なぜ、こんなにまじめに怒るのかその時はよくわかっていなかった。とりあ
 えず重いリュックを叔父に託し、手ぶらで歩くことにした。

この頃から雨足が強まってきた。母がぽつりと、レインウェアを忘れてきたと言った。父の勧め
 で数万円もする上等のレインウェアを買ったらしい。お父さんに怒られるな〜と言っていた。


3.伊能本部隊

7時半を回った頃、伊能ウォークのワゴン車が到着。本部隊員が顔を見せる。1回では乗り切
 れないようだ。父を捜したが、乗っていない。おいおい、息子が6:30から待っていると伝えてあ
 るのだから真っ先に来いよな、と、ぶつぶつ言っていたら2便で到着した。

さすがに本部隊員の準備は違う。皆、靴にガムテープをしっかり貼っている。靴ひもの穴から
 雨水が浸入するのを防ぐそうだ。母は父にレインウェアを忘れたことを告げた。案の定、父は
 激怒した。今日持ってこなくていつ使うんだと。母は、三木里を出るときには雨が降っていなか
 ったと弁解したがこれがさらに火に油を注いだ。当然私は見て見ぬ振りをしていた。
本部隊員は大変である。雨の中、テントを張り、垂れ幕を吊して、当日参加者の受付を始め
 た。私も参加手続きをした。


4.出発

いよいよ出発の時間が近付いてきた。急に、足の裏の豆が気になりだした。13日(土)に練習の
 ため千葉市内をウォーキングした際にできたものである。1時間半くらい歩いたところで豆がで
 きた。これくらいの時間なら普段も歩いており今まで豆ができたことなどない。近くのスーパー
 で見つけた新品(安物、2足980円)の厚手の靴下を履いたのが原因であろう。厚手の靴下で
 万全を期したつもりが裏目に出た。
母に、足の裏に豆が出来ているので、途中でやめるかもしれない、と伝えた。母は、お父さん
 が手当てしてくれるから看てもらいなさい、と言う。なるほど、父も過去、豆ができているはず
 だ。これは頼りになると思い、父に手当を頼んだ。靴下を脱いで父に足の裏を見せると、テー
 ピングした方がいいなと、リュックからテープを取り出した。さすが本部隊員だ、と私は父を見
 直した。父はテープを5cmくらい引き出して、切り取った。そして私の足の裏の豆の上にそれ
 を貼った。よし、大丈夫だ、雨に濡れるとはがれるかもしれないから、はがれたらまた言え、と
 父。えっ、これだけか、これならバンドエイドを貼るのと同じじゃないか、と内心私は思ったが、
 父は大真面目だったので、ありがとうと一言口にするにとどめた。期待した私が間違っていた
 が、まあ、父に久しぶりに父親らしい事をさせてやったのだと前向きに考えることにした。
手当を終えた父は、普通の道なら豆がつぶれていたいだろうけど、今日は山道をゆっくり歩く
 からかえって楽だろう、という。えっ、私は内心びっくりして、今日歩くルートの地図を父に見せ
 てもらう。
尾鷲から三木里まで、ほぼまっすぐ線が引いてある。あれ、国道のトンネルを通って九鬼経由
 で行くんじゃなかったのか、いったいどんな道を歩くんだ、と私。熊野古道を通ると父は言う。6
 27mの山越えだと付け加える。予定表には今日は31km歩くと書いてあった、これは山を迂
 回してトンネルを抜ける距離だろうと私が言うと、予定が変わったんだろうと父は涼しい顔。ま
 ずい、話が違う、そんな山登りだったら、三木里での歓迎隊に回ればよかった。伯父が、気色
 ばんで歩くのを拒否した理由がわかった。が、ここまできたら、今さら止めるとも言えない、観
 念することにした。

8時半から出発式が始まった、尾鷲市長が挨拶し、「八鬼山越えは伊能ウォーク最大の難所、
 あいにくの悪天候ではあるが、雨も尾鷲の名物なので勘弁して欲しい」とわかったようなわから
 ないような挨拶をしていた。準備運動のストレッチの後、今日の道案内の紹介があった。地元
 の地理に詳しい人が4人紹介される。4人も道案内がいるとは相当なところだな、いや待てよ、
 そういえば、さっき伯父が、今日は猟の解禁日なので、鉄砲に気を付けろ、って言ってたっけ。
 断片的な話が今一つにつながり、ようやく自分のおかれた環境を理解した。これは絶対に途中
 棄権できないのだ! が、時既に遅く出発である。


5.尾鷲市内

尾鷲では、皆一生懸命応援してくれる。雨の中、沿道からたくさんの人が小旗を振ってくれる。
 中には尾鷲節のパフォーマンスを披露してくれるグループもある。私が感謝してもしょうがない
 が、ありがたいものだ。私は笑顔で応えるが、父は口もきかずに真剣に歩いている。西川隊員
 の地元ということで応援しているんだから少しは愛想よく振る舞えばいいのに、と思ったが、こ
 れも父の性格だからと何も言わずあきらめた。
途中、林町を通る。ここは私が5才まで過ごしたところのはずだが記憶はほとんどない。母に
 場所を尋ねるとあの先と指で示す。しかし全く記憶が蘇らない、情けないものだ。
歩くこと約30分、いよいよ熊野古道の入り口まで来る。幸い足は大丈夫だ。

6.八鬼山越え

古道の入り口で、朝日新聞の伴走車が待っていた。最初の休憩だ。ただしトイレはここだけと
 いう。念のため、用を足しておいた。ここからは伴走車は入れない。次に伴走車に出会えるの
 は三木里だ、引き返すならここしかない。もう一度軽く足踏みをして、豆を確かめる。大丈夫痛
 くない、これならいける。

しばらくは、ハイキング気分のふつうの山道が続く。多少勾配はきついが、何てことはない。30
 分ほど歩き、車が通れるような道に出た。何だ、ちゃんとした道があるじゃないか。わざわざ足
 下の悪い山道を通らなくても良いではないか。熊野古道と言っても最近は整備が進んでいるん
 だな、こりゃかなり脅されたわい、となめてかかったが、これがとんでもない勘違いであった。こ
 こから状況が一変する。
道が石畳に変わり、急勾配の階段のようになる。人一人歩けるほどの道幅の石畳に周囲の水
 が集まり、さながら渓流を上っているようである。私のタウンシューズではつるつる滑る。さらに
 都合の悪いことには、この石畳だけが続くのではではなく、石のないドロドロ道もある。泥がつ
 いた靴で石の上を歩くので余計につるつる滑る。
雨も激しくなってきた。左手で杖をつき、一応右手に傘を持っているが、もはや傘は用をなさな
 い。体中びしょぬれである。それでも顔をガードしないと前が見えなくなるので傘をささざるを得
 ない。といっても、前なぞ見る余裕はなく、足下50cmくらい前までしか視界に入ってないが。
これがいつまで続くのか、父に尋ねると、もうすぐ七曲がりだ、七曲がりまで行ったらもう後は
 楽なもんだ、という。そうか、七曲がりまでの辛抱だな、と最後の力を振り絞るつもりで気合い
 を入れた。
父は時折足の豆を気遣ってくれるが、靴の中が水だらけで、これがクッションのようになってあ
 まり痛くない。私にとってはむしろ好都合であった。

ようやく七曲がりにさしかかった。なるほど、ひときわ急勾配となり、まさに頂上近しのイメージ
 である。ここを抜ければ、後は下りだな、と勝手に思いこんで、ラストスパートをかけた。七曲が
 りを越えたところで、道は平坦になった。よし、後は下りだな、何とかなると思った。今まだ、10
 時過ぎだ、意外と早くつけるのではないかと思い、後、どのくらいかかるか尋ねると、2時間か
 ら2時間半ぐらいだろうと全く意外な答え。あれ、七曲がりを過ぎたら後は下りではないのかと
 父に尋ねると、緩やかな上りがしばらく続くと涼しい顔。おいおい、七曲がりに比べたら緩やか
 かもしれないが、結構な上り坂だぞ。以後、父に道のことを聞くのはやめた。

やっとの思いで、ようやく頂上についた。頂上付近には、展望台が整備されており、ここだけ有
 名な観光地のハイキングコースのようだ。道も歩きやすい。晴れていれば眼下に海が広がり、
 眺望が素晴らしいそうだ。父が何度もそういうが、皮肉にも雨は一段と激しくなっており、50m
 先も見えない。おいおい本当に景色がいいんだろうな、となぜか疑心暗鬼になった。

7.感動の三木里

さあ、ようやく下りだ。後は一気に三木里まで一直線のはずだが、雨の中ではそうは行かな
 い。急勾配の坂道は上り以上に歩くのが難しい。前を歩く人が足をとられて転んだ。腰から落
 ちる見事な転びっぷりだ。やはり慎重に行かなければ、と思った途端に私も派手にひっくり返っ
 た。
注意していてもだめだ。杖を支えに、足場を慎重に選びながら歩くのだが、上りで体力をかなり
 使っているので踏ん張りが利かない。結局下るまでに都合3回転ぶことになる。
ちなみに前を歩く人は5回転んだ。
休憩なしで約1時間半、3回転倒の大困難の後、ようやく道は平坦になる。そして、ついに見覚
 えのある風景になった、三木里だ。国道に出て、公民館まではあと5分とかからない。一行は
 いったん停止し、後続を待った。この悪条件なのでなかなか揃わない。到着予定時刻をやや
 過ぎている。腹が減った、びしょぬれでもある、とりあえず、公民館に早く行って休憩したい、
 皆、そう思っているはずだ。
ここで父の悪い癖が出た。父は、未だ到着しない人を迎えにいくという。公民館では父が主役
 だ。三木里の人は父を待っている。早く公民館に行くように周りの人は催促するが、道を知っ
 ているのは俺だけだと。確かにその通りではあるが、状況を考えれば、朝日新聞の伴走の人
 に任せるべきではないか、足場は悪いが、途中に分岐があるわけでもなく、迷い込むとは思え
 ない。しかし、父は一行に先に公民館に行くように告げ、逆戻りを始めた。仕方ない、言い出し
 たら父は人の言うことを聞かない。われわれは公民館に行くことにした。

公民館の前では三木里の人が大勢傘を差して出迎えてくれた。私を見て、アラオさんは?と尋
 ねてくる、遅れている人を迎えに行っているのでもう少し後になる、と答えると、残念そうな表情
 を見せる。そりゃそうだろう、雨の中、ずっと待っていてくれたはずだ。本当なら、父が先頭を歩
 き、大拍手の中、公民館に入るはずだ。

公民館では、魚飯と汁物で迎えてくれた。はまちと鯛の魚飯、鯛で出汁をとった味噌汁と吸い
 物。それに漬け物、お茶。すべてがうまかった。子供の頃、食べ慣れた味だ。この味は三木里
 でなければ味わうことができない。父はまだ来ない。気にはなったが、腹が減っていたので、と
 りあえず魚飯を4杯と味噌汁を2杯食った。
出発の時間が近づいてくるが、父はまだ来ない。皆食事も終わった。隊長はとりあえず、30分
 予定を遅らせて、寺に集合とした。ニヨムヤ(父の実家の屋号)では、公民館の歓迎とは別に、
 歓迎の準備をしている。本部隊員をもてなす予定だ。
母が先導して、先にニヨムヤに案内する事にした、気をもんでいる中、ようやく父が到着した。
 もう時間がないので、直接ニヨムヤに行くように言う。飯をくってないと言うが、自分の家で食べ
 ればいいではないか、とそのままニヨムヤに行くように促す。

私もニヨムヤに行った。公民館から急な坂道を登ると、音楽が聞こえてくる。伊能ウォークの合
 奏でお出迎えだ。座敷に上がると、鯛の鮨があるではないか。しまった、魚飯を4杯もくわなき
 ゃ良かった、と後悔した。しかし、これは食べずにはいられない。とりあえず、20個ほど一気に
 食べた。うまかった。これまた食べ過ぎだが、まあ、激しい運動の後だからいいだろう。

そうこうしているうちに、一行は今日のゴールである賀田に向かって出発する。私は、ここでリ
 タイアすることにした。八鬼山を越えて気力が失せたのと、服がびしょぬれだったので、これ以
 上歩く気はしなかった。
あらためて、ニヨムヤの玄関に出てみると、立派な大漁旗があった。(よく見ると、伊能ウォー
 クのゴールが20001年1月と書いてある。0が一つ多い。思わず吹き出してしまったが、これ
 はだまっていた。注:このときの写真がホームページに掲載してあるものです)
帰りの夜行バスで感動に浸った、が、もう2度と雨の八鬼山を歩くことはないだろう。


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