新聞記事


伊能ウォークは朝日新聞社が主催しているため、
おじいさんを記事にしてくれたり、おじいさんの寄稿を
たくさん掲載してくれました。
その一部をご紹介します。

1999年12月04日

朝日新聞三重版 (字が読みにくいので、新聞の下のテキストをご覧ください)
故郷の道 感激の歩み

 変わらぬ石畳・知人との再会

 尾鷲出身の隊員・西川さん

 出身地・尾鷲市の大会で、本部隊員として紹介され、子どもたちから激励される西川阿羅漢さん(左)=尾鷲市役所で

  十月から十一月にかけて二十五日間、県内を歩き通した「伊能ウォーク」(朝日新聞社など主催)の一行は三日夕、和歌山市に着いた。今年一月の東京出発から歩き続けている尾鷲市出身の本部隊員、西川阿羅漢さん(六九)=愛知県安城市=も元気いっばいで、二〇〇一年一月一日のゴールをめざしている。西川さんから、故郷を歩いた感動をつづった便りが朝日新聞津支局に届いた。


  三重県から和歌山県へ、県境を越えてから二週間以上になるのに、感激と興奮がいまだに残っている。改めて三重の皆さんにお礼を申し上げたいが、どんな言葉でも言い尽くせないような気がするので、十六日の尾鷲市賀田での大内惣之丞隊長のあいさつで代弁させていただく。
  「このような心のこもった歓迎は今までもなかったし、おそらく今後もないでしょう」
  三重の印象を二つ述べたい。一つは熊野古道、もう一つは出会いの感激について。
  熊野古道最大の難所といわれる八鬼山道は、若いころ、何十回となく通った道である。知り尽くしているとの思い上がりから、それほど期待していなかったのだが、今度歩いて認識を新たにした。.
  言うまでもなく、この古道のセールスポイントは石畳である。石畳は、鉄道が開通した昭和三十年代から放置されていたにもかかわらず、以前とまったく変わっていなかった。このことにまず驚いた。
 これは江戸時代から変わらずに存在し続けたことを意味する。しかも、名にしおう尾鷲の大雨に耐えての数百年である。この意義は大きい。
  初めから終わりまで続く全山石畳の山道には圧倒される。なにしろ、江戸時代の雰囲気がそのまま現存するのだ。
 古いもののみが持つ魅力、本物だけが持つ説得力がある。
  鬱蒼たるヒノキ林がその魅力を強調しているのも面白い。これらが、熊野古道随一の難所といわれる八鬼山にウォーカーを誘うのだろう。
  伊能隊が山越えをした十五日は、すごい雨だった。杉田晴良尾鷲市長は「雨もまた尾鷲名物の一つ」と冗談を言って見送ってくれたが、八鬼山越えの感想を聞かれた者は、一様に「きつかったが、素晴らしいコースだった。今度は天気の良い日に登りたい」と述べていた。それほど、この古道随一の難所には不思議な魅力がある。

  ウォーキングの魅力の一つに出会いとふれあいと再会がある。
  私は海上保安庁を退職して十年たつ。在職中は全国を転勤した。そんな私に次のような劇的な再会があった。
  十一月五日、鳥羽から志摩磯部へ歩いている時、三十分も自転車で追いかけて激励してくれた古い友人、中務さんの奥さん。友人に会ったのは十五年前、彼女に一度も会ったことがない。友人が所用のため来られないので代わりに来たのである。
  津では、ご主人が病気だからと、雨の中を出迎え、見送ってくれた三十五年前に会っただけの駒田さんの奥さん。また、「主人が少し遅れるからそれまで一緒に歩く」と、鳥羽から同行した大川さんの奥さん。この奥さんも初対面である。私は奥さん方にお会いして、ただただ頭を下げた。
  驚いたのは、鈴鹿で「業務管理官」と音の職名で呼びかけられた時である。声をかけたのは現在「鈴鹿歩け歩け協会」の役員をしている金五さん。また、八鬼山越えに同行してくれた七十五歳の高坂さんにも頭が下がった。
  私ごとで恐縮だが、東京から夜行バスで駆けつけ、雨の八鬼山越えをやり、とんぼ返りした三十六歳の長男の和比古。県内の全行程を一緒に歩き、女性三人日の「スーパーウォーカー」に認定された妻敦子。伊能ウォークならではのことである。
  ほかにも数えきれない感動的な出会いとふれあいと再会があった。関係の皆さんの心温まる歓迎に、よくぞ尾鷲に生まれたと、感激ひとしおである。


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